文治5年(1189年)鎌田新藤次俊長によって築かれたと云われる。 俊長は鎌田政清の子である。平治の乱で敗れた源義朝は家臣の鎌田政清とともに尾張国へ逃れたが、そこで旧臣の長田忠致によって討たれた。俊長は平家の来襲に備える為に鎌田城を築いたという。
近年の発掘調査によって、十五世紀末から十六世紀初頭の遺物が確認されていることから、伊東氏が伊勢宗瑞(北条早雲)の伊豆侵攻に備えて整備したものと推測されている。
鎌田城は伊東市街地から松川(伊東大川)沿いに遡った所にある標高318mの城山山頂に築かれている。城域はそれほど広くはないが、大規模な堀が多数あり見所の多い城である。
現在案内板が設置されている最高所が主郭で、半分ほど土塁が巡っているが、北の一角に神社が祀られており改変を受けている。
主郭の北側には浅い堀9を挟んで曲輪IIがあり、東側には浅い堀8を挟んで曲輪群IIIがある。堀8と9は神社のあたりで交わっていた可能性が高い。
東へ伸びた尾根側には虎口と堀切5がある。虎口の部分も南北両サイドから土塁が中央へ伸びてきており堀状になっているが、中央が開口して堀切5に架かる土橋へとつながる。この土塁の部分に大規模な城門があったものと考えられる。
主郭から西へ伸びた尾根には堀切6があり、そのさきが展望スポットとなっている。この部分は緩斜面だが下方に下ると堀切7がある。
北東へ伸びる尾根は曲輪IVの下方を大規模な堀切4で遮断している。堀切4の南端は垂直に曲がって竪堀として伸びるが、そこの南側にも一部横堀状になった通路があるが、これは曲輪IVの南端から下る山道とつながる。このあたりは改変のようにも見える。
現在の登山道が続く北西尾根には三重堀切2があり、厳重に遮断されている。一番内側の堀切は南側が垂直に曲がって竪堀として落ちるが、上の曲輪Vもこのオレに沿って若干小規模な段を設けている。
登山道は北の八代田からと南の松川湖ダム側にある。
車の場合、松川湖ダム側に駐車可能なので、こちらから登る方が良いが、沢沿いに登るので道が悪くところどころ川を渡る。
北の八代田側からは駐車場はないが、重機で掘削されたような登山道が続いており歩きやすい。
最寄り駅(直線距離)