築城年代は定かではないが徳島氏によって築かれたと云われる。 徳島氏は千葉胤繁の孫義胤が芦刈に土着して徳島氏を称した事に始まる。
天文20年(1551年)徳島左衛門大夫信安は鴨打氏と戦って敗れた。
永禄6年(1563年)有馬義貞が佐嘉へ侵攻してきたとき、龍造寺軍は丹坂峠で有馬軍と激突した。このとき徳島孫八郎盛秀も龍造寺軍の先鋒として戦った。
永禄12年(1569年)大友軍の佐賀侵攻に先立って龍造寺隆信と鍋島直茂の妻子を芦刈の徳島館に避難させていた。この徳島館が徳島城、あいるいは陣の森城と推測されている。 この戦いでも盛秀は鍋島直茂に従って大友軍の籠もる今山を急襲した。
徳島氏は天正17年(1589年)にも芦刈に在住しており、江戸時代には小城鍋島家の家臣となった。
陣の森城は現在圃場整備によって遺構は全く失われているが、発掘調査によって掘立柱建物跡や井戸、溝などを検出している。圃場整備前には「珍の山」と呼ばれる40m四方程のの方形の高畑があり、城跡と伝承されていたようである。
徳島氏の城はこの陣の森城と西にある徳島城が考えられているが、ともに「徳島城」や「陣の森城」との別称があり、伝承は錯綜している。
水路の一角に「陣の森城・小路遺跡」の案内板がある。近くの福田寺は徳島氏の菩提寺。写真は徳島城を参照。
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