築城年代は定かではないが天正年間(1573年〜1593年)に松浦鎮信によって築かれたと云われる。 松浦氏が佐賀方面からの侵攻に備えて築いた東端の城という。
天正14年(1586年)大村純忠は有馬氏・波多氏・有田氏を誘って早岐地方に侵攻し、井手平城を取り囲んだ。井手平城には岡甚右衛門・松口六右衛門・堀江大学など三百の兵が籠城し、対する大村氏方は波多氏・有田氏は内野口、大村氏・有馬氏は神徳寺口から攻め寄せた。激戦となったが次第に押し込まれ籠城方の大半が討死して落城したという。
井手平城は小森川とその支流に挟まれた丘陵に築かれている。 上宮神社背後の半独立丘陵と、その北東、小森川に面して南へ伸びた丘陵に築かれている。
上宮神社背後の半独立丘陵には石碑が建てられており、周囲に横堀らしい遺構が残っている。溝は北側の半円のみで南側には残っていない。
小森川に面して南に伸びる丘陵には土塁で区画された曲輪があるが、遊歩道の建設か鉄塔の建設によってかわからないが土塁を貫通して道が付けられている。北の尾根に一条の堀切が残る。西下にある池は水堀の名残という。
日本城郭体系に掲載されている縄張図では南の丘陵が本丸、北の丘陵が出丸とされるが、中世城館事典ではその反対で北の丘陵を本丸としている。現地を歩いた感覚では北の丘陵が本丸に相当するように感じる。井手平城は当初南の丘陵のみが城跡と認識されていたようで、その後の調査で北の城郭遺構が発見されたということである。
国道35号線沿いに上宮神社があり、その隣に薬王院がある。薬王院は松浦隆信が建立した寺院で、井手平城落城時の戦没者を慰霊した仏石灯籠及び碑石があり市指定の文化財である。
城へはこの上宮神社と薬王院の間の道を北東に進んでいくとたどり着く。
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