応永3年(1396年)に大津山資基によって築かれたと伝えられ、その後代々大津山氏の居城であったと云われる。
豊後の大友義鑑は肥後の菊池義武を鎮圧すると、天文23年(1555年)に小原城主の小原鑑元を城代として置いたが、弘治2年(1556年)謀反の疑いで鑑元は討たれ、再び大津山氏が城主となった。
薩摩の島津氏の勢力が北上すると小代氏とともに大津山氏も島津氏に降ったが、天正15年(1587年)の豊臣秀吉の九州征伐では開城して出迎え所領を安堵された。
豊臣政権化のもと佐々成政が肥後に入部すると佐々藤右衛門が城代となるが、天正15年(1587年)に肥後国人一揆が起こり、大津山氏は一揆に与して滅亡し、佐々成政も改易となった。
佐々成政に代わって加藤清正が北肥後に入封すると、加藤直政、加藤正次が城代として小代城より入ったが、慶長5年(1600年)鷹ノ原城を築いて移り廃城となった。
大津山城はつづらがだけ/あまつらがだけ城(草冠に田が品のように三つ)ヶ嶽城と呼ばれるが、漢字が利用できないので大津山城として紹介する。
大津山城は大津山阿蘇神社及び生目八幡宮の境内の背後に聳える標高256.1mの大津山山頂に築かれている。この城は「玉名郡南関之図」にも記され、「本丸」・「二ノ丸」「三ノ丸」・「家治館」・「久保丸」などの名称が伝えられる。また城主として、 大津山河内守資基、経澄、経稜、経方、重経、資秋、資冬、小原鑑元入道宗意、大津山家稜、佐々藤左(右)衛門宗政、加藤清兵衛直政、加藤美作正次をあげている。
本丸は山頂にあって南北二段で北が高く、段には石積が設けられ西側斜面にも1m程の石積が確認できる。ここには礎石が確認でき、発掘調査によって16世紀から17世紀初頭の遺物が出土している。本丸から北へ続く尾根には三条の堀切が設けられ、竪堀として伸びている。
二ノ丸は本丸の南西下にあり、南西に伸びる尾根に階段状に曲輪を連ね最下段には無線中継施設が建つ。この辺りにも西斜面に竪堀が落ちている。
三ノ丸は二ノ丸から更に南西に降りた標高190m付近で、南北に長い曲輪で北端部付近は箱型に凹んだ地形があり、木戸でも設けていたのであろうか。この三ノ丸から西斜面には巨大な竪堀が落ちており、途中一度屈折して更に下へ伸び麓まで通じる。
登山道は南麓の生目神社、大津山公園、または北側にある林道からのルートがある。
最寄り駅(直線距離)