築城年代は定かではないが三池氏によって築かれたと云われる。
三池氏は鎌倉御家人で元寇の頃に中原姓安芸定時が肥後の鹿子木荘に下向、その子貞宗が筑後国三池南郷の地頭職となって三池氏の祖となったと云われる。
三池氏は国人として勢力を持ち大友氏に従っていたが、ときに菊池氏に呼応して大友氏に叛いてもいる。豊臣秀吉による九州征伐の後は所領を安堵され柳河城主となった立花宗茂の与力となった。
三池山城は標高388mの三池山山頂の北にある標高366mの峰に築かれており、主郭には現在三池宮が鎮座しその境内となっている。
主郭は三池宮のある境内で北下には三池の由来となった三つの池があり、現在も水を蓄えている。主郭の南東から東へ伸びた尾根に城内で最も大きな曲輪があり、南に土塁を残している。三池山へと続く南尾根には二条の堀切、東尾根には二重堀切とその外側に大きな堀切、一方主郭から北へ続く尾根は鳥居の下に堀切を設けている。ここの城の特徴として一番下部の側面に畝状竪堀群があることで、主郭北端の堀切から東へ回り込んだ所と、東へ伸びた曲輪の側面に見ることができる。
登山道はいくつかあるが、西山腹にある普光寺の境内脇から三池宮に登る参道が一般的である。普光寺にある駐車場は参拝者用で登山客はご遠慮下さいということで、車はどこかに駐めてくる必要がある。
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