築城年代は定かではない小代氏によって築かれたのが始まりとされる。 小代氏(しょうだい)は武蔵国入間郡小代郷発祥で武蔵七党の一つ児玉党に属していた御家人で武蔵国小代館に住んでいた。
宝治合戦の功により小代重俊が肥後国野原荘の地頭職に任ぜられ、文永8年(1271年)には鎌倉幕府より蒙古襲来に備えて野原荘へ下向するよう命ぜられ、 小代重泰(重康)らの兄弟が下向したことに始まる。
小代氏は以降、肥後国北部の有力国人として代々続き、はじめ大友氏、ついで龍造寺氏、島津氏に属し、豊臣秀吉の九州征伐では秀吉に従って所領を安堵され、肥後に入国した佐々成政、加藤清正そして細川氏の家臣となって近世まで続いた。
天正15年(1587年)肥後国人一揆のとき吉川広家が筒ヶ嶽城を改修したと云われる。
筒ヶ嶽城は小袋山の最高峰標高501.4mの筒ヶ嶽山頂に築かれている。西の府本には里城または出城と見られている梅尾城がある。また浄業寺は小代氏の菩提寺で「浄業寺古塔群」(熊本県指定重要文化財)があり小代氏累代の墓がある。(こちらの写真は六反城を参照)
筒ヶ嶽城は筒ヶ嶽山頂の主郭Iを中心として南端の曲輪群IIIから北端の長助金毘羅を祀る曲輪VIまで巨大な堀で区画された曲輪群がよく残されている。
主郭Iは南北二段で西側面に石積が残されている。南の段には財宝を収めた底なし井戸の蓋と伝えられる巨石が残る。
西尾根側は堀切13、15があり、針の耳に繋がる尾根鞍部に二重堀切14を設けている。
南尾根には二重堀切16があり、南のピークに曲輪群IIIがある。曲輪IIIは南端に高土塁を設けており、その下方に巨大な二重堀切17、緩斜面の先に圧巻の堀切18、19、横堀20がある。堀切18と横堀20の接合部は土橋を残してあり、この上部は土塁状地形を残してやや削平してある。
主郭からに北へ続く尾根には長い曲輪があり、先端の小高くなった所に曲輪IIがある。曲輪IIの北端土塁には石列が確認でき、曲輪Iとの間の曲輪部分にも石列がいくつか確認できる。このあたりは吉川広家による改修であろうか。
大堀切11の北側にあるのが曲輪群IVで、北側に向かって小規模な曲輪群が続き、北端は土橋を残した堀切10を設けてある。一方東尾根は堀9を挟んで小規模な削平段が続き二条の堀切8、7を設けている。このうち堀9は堀切の可能性があるが、現状は登山道が通り、北へ竪堀2 条、南に竪堀1条が伸びるような構造をしてあり、南の竪堀に面して土塁が残る。
曲輪群Vは北側に土塁を残す曲輪があり、西から南にかけて帯曲輪、間に竪堀6がある。東側は急坂である。北へ続く細尾根に二ヶ所の堀切4、5があり、その先にある曲輪VIまでほぼ自然の細尾根が続く。
北端の曲輪VIは西端の最高所に長助金毘羅が祀られ展望所として開けているが尾根上は非常に狭い。この曲輪VIの北側面に畝状竪堀群3があり、その下方に横堀20がある。横堀20は北東尾根を遮断する堀切1から伸びる竪堀の下方と接合してあり、西側は北西尾根を遮断する堀切になる。
現在のこる筒ヶ嶽城は小代氏の城としてはあまりに大きく、肥後国人一揆のときに吉川広家が改修したというのは有り得るだろう。各郭群は大堀切や二重堀切によって遮断されて独立勢が高く、曲輪Iの北にある曲輪II、Vは北側に土塁、南にある曲輪IIIは南に土塁がつけられており、主郭Iが中心なのは間違いない。
各郭群のなかで曲輪IVだけは段造成などに違いがあり、北尾根を遮断する堀切10は明瞭な土橋を残し、東の堀9は改変か改修にともなうものか意図がはっきりしない堀である。
筒ヶ嶽への登山ルートは多数あり、小袋山県立自然公園として良く整備されている。
荒尾市府本側の林道途中にある「針の耳登山口」や「中央登山口」から登るルートが主郭に近く、登山口付近に駐車スペースがある。
最寄り駅(直線距離)