築城年代は定かではないが広瀬氏によって築かれたと云われる。 広瀬氏の家臣田中与左衛門が城主であったという。
広瀬氏ははじめ三木氏に協力していたが、後に武田氏に通じて三木氏と対立するようになった。しかし天正10年(1582年)武田氏が織田信長によって滅ぼされると、翌天正11年(1583年)三木自綱が広瀬氏を攻め高堂城と広瀬城は落城し、城主広瀬宗城は討死した。
その後、三木自綱は家督を二男秀綱に譲り、隠居して高堂城と広瀬城を居城とした。 この三木自綱の時代に城は大きく改修されたという。
天正13年(1585年)広瀬宗城の子で広瀬兵庫頭宗直は飛騨を脱して越前国大野城主の金森長近の元に身を寄せていたが、羽柴秀吉の命により金森長近が飛騨へ侵攻するとその先導役として活躍し、高堂城・広瀬城に籠もった三木自綱を降伏させている。
城は宮川の南岸にあり、西の山塊から東へ突き出た尾根が小高くなった所に築かれている。広瀬氏の居城高堂城とは尾根続きに位置する。
城山は直ぐにわかり、案内板も確認したのだが登る道を探すのに苦労した。北側から見るとちょうど城山の北面には木が無く、中腹あたりが削られて道らしきものが城山の東へと延びていた為、そちらから登れるとばかり思ってさ迷ったが結局わからず、最後の手段は案内板のある道を峠までいって尾根伝いに行こうと思ったら、文化財保護センター付近から城山への道が見えたのでそれを使って登った。ただ、峠から尾根伝いに行く方がわかりやすく車でほとんど登ってしまえるので楽である。
定本・飛騨の城に縄張図が掲載されているのだが、山へ登る頃にはすっかり忘れており、帰宅してから見ているのだが南北が反対になっている気がする。
南北が逆に描かれているとして、東端の城石碑がある曲輪が二の丸で南側に帯曲輪が付き、その東側の尾根には堀切があって尾根下にはお堂が建っていた削平地がある。 二の丸から西へ行くと本丸があるが、その西面に石垣の跡が残る。本丸から堀切を越えて西へ向かう尾根はやや広くなり、そこが三の丸、それをさらに西へ行くと物見台がある。 この物見台周辺には畝状竪堀群があり、そのから西へ行くと堀切を越えて峠へ出る事ができる。
国道41号線名張交差点を南へ曲り、突き当たりの丁字路を左折し、直ぐに右折すると案内板がある。城跡へは複数の道が付いているが、一番わかりやすいのはその道を南へ進んで山へ入り、水道施設のある峠から尾根沿いの道を行けば堀切へ出る。
最寄り駅(直線距離)