築城年代は定かではない。 応永年間末期に藤原師言が築いたとの伝承もあるが、天文年間に古川二郎による築城とも云われる。
その後は塩屋筑前守の城となり筑前守は上杉謙信、後は織田信長に従ったが天正11年に討死したという。
その後は一時三木氏の勢力にあったが、三木自綱が金森長近によって討たれると金森氏の城となり、金森可重が入城したが、増島城を築いて居城を移し廃城となった。
この城は「蛤城(はまぐりじょう)」とも呼ばれるが、これは飛騨へ入国した金森氏がこの城へきたとき、城内に蛤石があったため、以後蛤城と呼ばれるようになったのだという。
城は西から東へ伸びる尾根の先にあり、西尾根を堀切で断っている。 登り口がわからず、さ迷っていると、ちょうどこの背後にある堀切が見えたので雨の中よじ登ったのだが、登り口はちゃんと用意されていた。
主郭は西端が一段高くなり櫓台のようでもある。主郭の東西に曲輪を配し、南側には帯曲輪がある。主郭の西面と東側から登る虎口付近に石積みがあったようで、その残石がある。
蛤城の由来となった蛤石は主郭から東へ下った曲輪に今も存在し、ちょうどそこに標柱が立っている。
宮川の西岸を走る県道471号線を走って行くと、「吉城コンポ」という看板があるので、ここから山へ入って行く。 少しいくと左手に山のように詰まれた石が見え、その右側には古屋があるが、その古屋の脇を山へと道が通じている。夏場は草に覆われ入口が判別しづらくなっている。
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