築城年代は定かではないが辺春氏(へばる)によって築かれたと云われる。 辺春氏の出自は詳らかではないが、天文19年(1550年)頃の文書に辺春薩摩守の名が「大友義鎮書状」に記されているのが文献上の初見という。
辺春氏の辺春城については諸説あり、「福岡県の城郭」によれば、地元では前河内城を本城とする説と三ノ瀬城、高須田城、熊ノ川城、前河内城、坂本城を総称して辺春城とする説があるという。いずれの城も小規模なもので、後者の説を支持する人が多いという。 また、「福岡の城」ではこの熊ノ川城を辺春城として紹介してある。
天正5年(1577年)から天正7年(1579年)にかけて、肥後北部に勢力を拡げていた龍造寺隆信は、小代氏・大津山氏・田尻氏などに命じて辺春氏の城を攻めさせた。辺春氏は居城の切岸において手強く防いたが、さらに攻められた為、辺春氏は降伏した。
天正12年頃(1584年)薩摩の島津氏の勢力が北上し、肥後北部にまで及ぶと、辺春氏も隈部親泰を通じて島津氏に降り、島津義弘に謁した。
豊臣秀吉による九州征伐では、城を開けて秀吉に降り、道案内をして協力し所領は安堵された。しかし、天正15年(1587年)肥後に入封した佐々成政に反発した国人が一揆を起こすと、婚姻関係(坂本城主辺春親行の妻が田中城主和仁親実の姉)のあった和仁氏に同調して田中城へ籠もった。秀吉は小早川・立花・鍋島などに命じて田中城を攻めさせ、辺春氏が寝返り落城したといわれる。
熊ノ川城は上辺春小学校の北西にあり、東へ伸びた丘陵の頂部に築かれている。
単郭の小規模な城で、現在主郭部は畑として開墾されており旧状は不明である。 東側の尾根下に土橋を伴う堀があり、堀は横堀として北側へと続いている。 石積は見あたらないが、同じく辺春氏の城と伝える肥後国坂本城と同様に、小規模ながら横堀を備える構えになっている。
国道3号線長瀬三ツ角交差点から上辺春集落内の県道805号線に入り、熊川沿いに西進すると上辺春小学校がある。小学校を過ぎて少し進んだ辺りに北の山上に入って行く道が一本あり、この林道が主郭まで通じている。歩いて登ったが、普通車でも問題なく山上まで行くことはできる。ただし畑の入口しかとめるところはない。