築城年代は定かではない。史料に最初に登場するのは『志賀家文書』の文明7年(1475年)であることから、これ以前に築かれていた。
角牟礼城は玖珠郡衆の一人森氏の詰城として築かれたものであるが、後に玖珠郡衆の番城となった。天正15年(1587年)島津軍の北上に対して玖珠郡衆は角牟礼城に籠城して戦い島津の攻撃を防いで落城しなかった。
文禄2年(1593年)大友義統が改易となると毛利高政が入封した。この毛利時代に石垣造りの近世城郭へと改修されていった。
関ヶ原合戦後、毛利高政は佐伯に転封となり、黒田氏を経て慶長6年(1601年)来島長親が伊予国来島から入封すると、久留島陣屋を築き廃城となった。
角牟礼城は標高576mの角埋山に築かれており、切り立った岩山に囲まれた要害になっている。現在は国指定史跡となり整備されている。
角牟礼城は中世城郭から石垣造りの近世城郭へと改修された山城で、本丸、二の丸、三の丸、水の手曲輪から成る。
本丸は山頂北西端にあり、低い土塁が巡る曲輪で虎口南にあったようだ。本丸の石垣は北側にあり、崩落している部分が多い。本丸から南東へは尾根伝いに平地が続いており、南側に帯曲輪が続きその一角に神社がある。
二の丸は本丸の南西下で、周囲に石垣が巡らされている。二の丸北端の西側が伝大手門で鍵状に張り出した石垣があり、外枡形になっている。ここの入口には櫓門があったようで、現在もきれいに礎石が並んでいる。二の丸から本丸へ続く通路は大きな竪堀と竪土塁によって遮られている。
二の丸の南東下にあるのが水の手で、城内で最も状態の良い石垣が残っている。水の手には現在も湧き出る井戸があり、搦手から登ってくる道は石垣で造られたスロープを上るようになっている。
二の丸の南西下にあるのが三の丸で、現在はこの部分まで車道が付いており、駐車場にもなっている。三の丸は石塁を周囲に配して曲輪を形成している。水の手に続く道の眼下には畝状竪堀群がある。
登山道は三島公園の末広神社からある。車の場合、三の丸まで林道が付いていて終点が駐車場になっている。
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