慶長7年(1602年)毛利高政によって築かれた。 毛利高政は尾張国荒子荘の出自でもともとは森氏を称していた。早くより秀吉に仕え、備中国高松城攻めで羽柴氏と毛利氏が和睦した際、人質として毛利家に送られた。このとき毛利輝元に気に入られ、毛利と森は唱が似ていることから毛利に改めるように勧められ、主君秀吉の許可を受けて毛利と改姓した。
慶長6年(1601年)関ヶ原合戦で東軍に属した高政は日隈城から二万石で豊後国佐伯に転封となり栂牟礼城に移った。しかし、ここは中世の山城であったために新たに城を築いたのが佐伯城であった。
築城当時は本丸に三重の天守があったと云われるが、早期に焼失して宝永6年(1709年)に描かれた佐伯城図には天守が描かれていない。 2代高成の時までは山上に住んでいたが、寛永14年(1637年)3代高直(尚)の時に、山麓に三の丸を増築して居所を三の丸移した。その後山上の本丸・二の丸は荒廃していったが、宝永6年(1709年)6代高慶の時に、幕府の許可を得て城を修復、この時大手門も冠木門から櫓門へと変更したという。
佐伯藩は高政を初代として十二代続いて明治に至る。
佐伯城は番匠川河口北岸に聳える標高144mの城山に築かれている。 佐伯城は城山山頂部の山城部分と東麓の三の丸による平山城となっている。
山城部は中央の本丸を中心に北に北の丸、南に二の丸、西の丸を配している。 本丸は外側に本丸外曲輪があって二段となり、低い天守台が残る。本丸石垣は東側に角を作らず曲線を描くのが特徴で、これは三の丸の石垣にも見ることができる。二の丸の南、西の丸の東、北の丸の西にそれぞれ虎口が付いているが、近世城郭としては虎口が小さく、人一人が通るのがやっとという虎口が多い。
三の丸は東麓の佐伯文化会館の所で、三の丸櫓門が現存している。かつてここに残っていた御殿の一部が住吉御殿として移築現存している。櫓門から佐伯小学校の南側を一直線に通っているのが内馬場通りで、現在の国道217号線との交差点入口に大手門があった。
櫓門前の通りを北へ行くと山中家屋敷跡やお浜御殿を移築した国木田独歩館、毛利家の菩提寺で墓所がある養賢寺へと続いている。
2019年7月に本丸の北側石垣に四段になったハバキ石垣が確認された。ハバキ石垣は高石垣が崩れるのを防ぐための補修用石垣のことで、岩村城や盛岡城、鳥取城には巻石垣などがある。 佐伯状のハバキ石垣の特徴としては、四段になった石垣の継目の部分が緩斜面の石垣になっていることだろう。
三の丸櫓門(現存 櫓門)
三の丸御殿(移築 御殿)
お浜御殿(移築 御殿)
佐伯文化会館の無料駐車場が利用できる。文化会館の北側から山上に向かって大きく三つの登城路が用意されている。
登り口の駐車場の近くに2015年5月「佐伯市歴史資料館」がオープンしました。この資料館は展示物が撮影可能で、中には佐伯城の模型や栂牟礼城の説明もあります。
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