築城年代は定かではないが文明年間(1469年〜1487年)に大友親繁によって築かれたと云われる。
文献では永正年間(1504年〜1521年)に大友親治が田北親幸に宛てた書状があり、田北氏が鹿鳴越城の城番を務めていた。また、それ以後も田北氏や渡辺氏、新辺氏、河内氏などが城番を務めていた。
鹿鳴越城は日出町と山香町との境付近にある標高556mの古城山に築かれている。眼下には日出から山香を往来する鹿鳴越峠があり、それを押さえる要衝である。
鹿鳴越城は南北二郭の城で曲輪の規模は小さいが、堀切や竪堀の規模は大きく、大分県下でも一、二を争う大きさである。
主郭は山頂にあり中央がやや高く周囲を帯曲輪が巡っている。北の二郭との間には巨大な二重堀切があり、堀切から東の谷まで竪堀が長く伸びている。また主郭の北東下に横堀の塹壕があり、その脇からの二条の竪堀が落ちており、合計四条の連続竪堀となっている。
主郭と二重堀切を挟んで北にあるのが二郭であるが、ここは南北に伸びた細尾根を少し加工した程度で曲輪の規模はさらに小さい。しかし、北尾根には幅広の二重堀切がありこれまた竪堀として長く斜面を遮っている。ここから北へ石塁が尾根伝いに続いているが、これはシシ垣か境界線で後世のものと思われる。
城山の北を走る車道から農道が尾根伝いに続いている。この一角から城山に通じる山道があり、その一部が「殿の道」である。
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