詳細不明。『芸藩通志』には「龍王山 長田村にあり」とだけ記されている。
文明7年(1475年)毛利豊元は東軍方の横坂要害などを切り落とし、山名是豊を備後より追い落とした。この功によって伊多岐(板木)・重永・山中などに所領を得て千代寿丸(毛利弘元)に譲り渡した(毛利家文書151)。この横坂要害が龍王山城と見られている。
龍王山城は馬洗川の北岸、西に流れるその支流に沿って南へ張り出した丘陵の頂部に築かれている。現在は地元の方が整備していて登山道がつけられている。
最高所の主郭Iから南北へ伸びた尾根に曲輪を展開し、周囲は堀切や畝状竪堀群でほぼ全周を埋め尽くしている。
主郭Iは小さな祠が祀られている。南東隅が開口して南の曲輪IIと接続する。曲輪IIも東にスロープがあり、南下の曲輪IIIと接続する。
曲輪IIIは南北に長く小さく三段ほどに区画された曲輪である。北西隅に石を盛り付けた石塁があるが、なぜここだけにこんな遺構があるのかわからない。
曲輪IIIの中央東下に曲輪Vがあり、現在南東麓から続く山道がここに接続している。この小規模な空間は桝型虎口のような空間で曲輪IIIの三方向から睨みを効かせている。
主郭部の南端は大きな堀切1で遮断しているが、その南方にも曲輪VIがある。
主郭から東へ伸びた尾根は二重堀切3で遮断する。北側面にある畝状竪堀群4は幅広でやや短いが、一部は上下二段になっているようで、下方にも短い竪堀群がある。
西側面はやや荒れていて崩れているところも多くはっきりしないが、曲輪面から大きく下ったところに数条の竪堀群が確認できる。
東側面は畝状竪堀群2があるが、二重堀切に近いほうは上下二段の竪堀があり、南側は一段低い位置を起点としている。曲輪Vから続く山道はこの竪堀群の南端で折れて登って行くようにつけられており、そういった点からも大手道を踏襲している可能性は高い。
南東麓に「カフェ横田」という古民家カフェがあり、その脇から東尾根を経由して登る道が整備され、入口に石碑と案内板がある。
近くの方に駐車場を聞いた所、入口脇に横付けして駐めてよいと教えていただいた。また東尾根の先端にある横坂天満宮境内まで車であがることもでき、こちらから登るルートもある。
最寄り駅(直線距離)