築城年代は定かではないが和泉(泉)氏によって築かれたと云われる。
『芸藩通志』には「黒岩山 大月村にあり、泉久勝より、久正まで、三世、所居、」とある。
城主和泉信正は比叡尾山城主三吉致高の娘婿であった。三吉氏から大内方となるよう説得されたが、それに応じず尼子に属して嫡男信行を人質に出していたことから、大内派の家臣団によって粛清され、信行が家督をついで大内方となったと云われる。
天文22年(1553年)には旗返山城主江田氏が尼子方に転じたことから、大内の命を受けた毛利元就が江田氏を攻めた。このとき釜峰山城には毛利から13人の援軍が送られていたが、尼子氏の圧力に屈した湧喜氏はこれを自害させ、尼子氏に降った。
これを見た毛利氏は軍勢を北上させ黒岩城に毛利元就が入り、萩の瀬の橋を中心に尼子軍と戦った(泉合戦)。戦いは降雨によって増水した川によって決着がつかず、尼子方は退いて毛利方も旗返山城を攻略したため、尼子の勢力は備後から後退した。
黒岩城は口和ICの西にある南北に伸びた山に築かれており、現在は公園として整備されている。
主郭は山頂にあって神社が祀られていたが、いまは荒れているのでどこかに合祀されたのであろう。主郭から南と東に伸びた尾根に曲輪群を連ねており、現在の登口が松岳院跡で居館跡ではないかとされている。
主郭から南へ伸びた尾根は高い切岸と広い曲輪が連なる。主郭の北端に一部土塁跡と思われる土壇がある以外は明瞭な土塁はない。また遊歩道が設けられていることもあり、虎口もはっきりしないところが多いが、曲輪Vの南東には一段低い虎口らしき地形がある。
主郭から東へ続く尾根は南尾根に比べると小規模な曲輪が連なっている。こちらも遊歩道が設けられているが、それがないと登り降りに苦労するほどの高低差がある。
山腹から南西に伸びた尾根に小規模な曲輪群XIIがある。曲輪は削平が甘く小規模な段が続いており、南端に堀などは見当たらない。
主郭から北へ続く尾根は大堀切2で遮断している。先行図面ではさらに北に堀地形を描いているが、山道による切通である。南の尾根先部分には浅いながら放射線状になった畝状竪堀群1が確認でき、東の尾根先にも二条の連続竪堀4があり、こちらも畝状竪堀群であった可能性がある。
口和ICの北側に入口があり、松岳院跡が駐車場になっている。