築城年代は定かではないが涌喜(湯木)氏によって築かれたと云われる。
『芸藩通志』には「釜峰山 迫城 並に湯木村にあり、上は湯木三郎則重、所居、此跡より、南西に物見が段といふあり、下は守者しれず、濠塹の形など遺れり、」とある。
延徳2年(1490年)には泉田荘を巡って涌喜氏、山内氏、三吉氏が対立し、このとき山内氏は向城を築いて牽制し、備後守護職山名俊豊の勧告を無視して、涌喜氏の涌喜城(釜峰山城か)を攻め、最終的には泉田荘を支配することになった。
天文22年(1553年)旗返山城主江田氏が尼子方に転じたことから、大内の命を受けた毛利元就が江田氏を攻めた。このとき釜峰山城には毛利から13人の援軍が送られていたが、尼子氏の圧力に屈した涌喜氏はこれを自害させ、尼子氏に降った。
毛利氏は黒岩城の和泉氏が危うくなったため、江田氏の攻撃を中断して北上、元就は黒岩城に入り、萩の瀬の橋を中心に尼子軍と戦った。(泉合戦)
江田氏が滅亡すると尼子方であった山内氏らも大内方となり、涌喜氏の処遇ははっきりしないが、山内氏の家臣として涌喜氏が存続していたようである。
釜峰山城は標高788.2mの釜峰山から南西に伸びた尾根の先端、標高664m地点に築かれている。現在は「釜峰山森林浴公園」として釜峰山への登山道が整備されている。
中規模の城で、尾根上に三段の曲輪があり、南側面に二段の腰曲輪を備える。圧巻は釜峰山山頂に続く背後の尾根に設けられた八重の堀切で、大小様々な堀切が並べられている。また南西尾根はやや離れたところに堀切1が確認できる。
主郭Iは北東背後に高土塁を設け、北に一部土塁がある。西下に曲輪II、さらにIVと続く。
南下にある曲輪IIIは東側が竪土塁となり、西に下ると曲輪IVに至る。曲輪IVも北側に土塁があり、隣接して井戸とされる窪みがある。
登山道を登る詰めると曲輪VIとVの間にある虎口に至る。城内の導線ははっきりしないが、現状では180度回り込んでVIからIVに登る道が整備されている。
曲輪Vの東側面には三条の畝状竪堀群2があり、IIIとVは側面に竪土塁を伴う。
南麓の伊与谷側から釜峰神社の案内に従って行けばよい。途中にも広い駐車場があるが、舗装路終点の釜峰神社に駐車可能である。