築城年代は定かではないが治承年間(1177年〜1180年)頃に足利忠綱によって築かれたと云われる。 足利忠綱は治承4年(1180年)源頼政が平清盛を討つために挙兵すると平清盛を加勢するために軍勢を率いて上洛し、宇治川合戦で戦功を挙げた。寿永2年(1183年)信太義広(志田義広)に加勢して源頼朝討伐の兵を挙げたが野木宮合戦で敗れた。野木宮合戦で敗れた忠綱が備中国へ逃れた一時期籠っていたのが、この井戸橋城とされる。
天文年間(1532年〜1555年)頃には備後国五品嶽城宮氏一族の宮実信が在城していたという。
城は南東に突き出した尾根の先端の頂部に築かれており、鴫川とその支流に三方を囲まれた要害の地に築かれている。
主郭は山頂にあり、現在神社が建てられている。主郭から北東方向に伸びた尾根に堀切があって土橋が架かり、その東下に二段の曲輪が残る。主郭から西には東西に長い曲輪があり、その西にもう一段曲輪がある。西の尾根は車道によって破壊されているが堀切があったと思われる。
主郭の北西の北斜面に畝状竪堀群があり、山道によって途中分断されているものの良好に残っている。
県道9号線沿いの共和小学校付近から西の山へ入る車道があり、それを道なりに進むと八幡神社がある。そこから東の尾根に伸びる車道を進めば神社へ達する。神社まで車道は通じているが八幡神社の駐車場にとめて歩くのが良いだろう。