詳細不明。阿曽沼氏の城か。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書 』に未掲載であるが、CS立体図で見つけた場所に城郭遺構が確認できたので、仮称榎ノ山城として掲載する。地元の方はこの山に城跡らしき地形があるのをご存知であったが、城の名前や山の名前は特にないという。
榎ノ山城は上の城と下の城の二ヶ所に城郭遺構があり、ここでは下の城について記す。
榎ノ山城(下城)は標高180m付近から北へやや緩やかに下る尾根部分を曲輪とし、南北両端を堀切で遮断している。曲輪の造成は甘いが、自然の尾根傾斜を利用して段々に削平してあり、土塁は主郭の南端に低いものが認められるのみである。
南背後は曲輪面より高くなるため、大きな二重堀切4で遮断している。内側の堀切は大きいが外側は小さい。堀切から長く伸びる竪堀と連動して内側に竪堀5、6を設けている。東の竪堀5は支尾根をやや斜めにカットするように竪堀が設けられている。
北の尾根先を遮断する堀切2も竪堀が長く伸び、外側には放射線状になった畝状竪堀群1を設ける。西側面には堀切から伸びる竪堀と連動する竪堀群3が四条ほどあるが不明瞭である。
志和盆地と結ぶ榎ノ山峠への道を見下ろす位置にあり、この街道を押さえるための城であったと推測される。この地域は阿曽沼氏の勢力下であったと思われるので、阿曽沼氏の城であろうか。
このあたりで畝状竪堀群を有している城はすぐ近くにあった三ツ城で、この城は宅地造成によって消滅しており遺構を見たことがないが、『広島県中世城館遺跡総合調査報告書 』掲載図面によれば、南北両端に畝状竪堀群が確認されている。
また、阿曽沼氏の城では居城の、串山城でも畝状竪堀群が確認できる。
整備された道はない。東麓の河内神社から取り付いて登ったが、南尾根のほうが登りやすそうである。
最寄り駅(直線距離)