山中鹿之介(鹿介)は出雲国の大名尼子家の旧臣で、毛利によって主家が滅亡した後、京都で僧となっていた尼子勝久を担ぎ再興軍を起こした。織田信長などの支援を受けて毛利に対抗したが、天正6年(1578年)播磨国上月城に籠城するも毛利軍に攻め落とされ、尼子勝久は自刃、鹿之介は捕らえられ毛利輝元のいる松山城へ護送される途中、阿井の渡しで暗殺された。
『山中鹿介の墓』は正徳3年(1713年)に備中松山藩石川氏の家臣前田時棟と足軽の佐々木軍六によって建立された墓碑である。鹿之介が討ち取られた場所には榎を植えて目印としてたが、洪水によって流失したという。
近くには山中鹿介胴墓があり、首塚は広島の鞆にある。