頼久寺の創設は定かではないが足利尊氏によって各地に建立された安国寺の一つとして再興された。永正年間(1504年〜1521年)に松山城主であった上野頼久によって頼久寺の伽藍が整備され、頼久が没するとその名とって寺号を改めた。
国指定名勝となっている頼久寺庭園は関ヶ原合戦の後に小堀遠州の父正次が赴任し、このとき遠州が作庭したとも伝えられているが確証はない。
頼久寺の境内には上野頼久の他、備中兵乱によって没した三村元親とその子勝法師丸、そして父三村家親の墓がある。元親は家親の墓は鶴首城に近い源樹寺にもある。