築城年代は定かではないが山本氏によって築かれたと云われる。
弘治3年(1557年)に城の普請がなされていたことが『兼右卿記』から知られる。
天正元年(1573年)山本対馬守は織田信長に敵対した足利義昭に与して静原城に籠城したが、織田信長の家臣明智光秀によって攻められ落城した。
山本対馬守はこの戦いで討ち取られているが、父とも云われる山本佐渡守実尚はその後も活動していた。
静原城は静原神社の北背後に聳える標高480mの城谷山に築かれた北城と、そこから南東に伸びた標高340m付近の通称城山に築かれた南城で構成されている。
主郭Iは山頂にあり、そこから南東、南の尾根に向かって段々と曲輪を連ねており、一部側面には石積が確認できる。主郭の東側中央には石段があり虎口と考えられる。また北西隅にも虎口状の開口部があり、曲輪IVを経てBの部分から尾根背後に出ていたようである。南西のAには曲輪IIIからつながる小空間があり、これも虎口に関連するかもしれない。
南尾根に続く曲輪群は東西に長い帯曲輪状で、東側に静原神社からつながる登山道が伸びているが堀はない。
南東尾根は比較的小規模な段曲輪が続き、曲輪IXの下には良好な石積も確認できるが、こちらも堀はなく自然尾根として繋がっていく。
主郭から北西に伸びる尾根の先には曲輪XIがあり、その先に堀切を設けて遮断している。曲輪XIは堀切に面して土塁があり、北側は入隅になるが横矢を意識したものかどうかははっきりしない。
静原神社と阿弥陀寺の間を登って行く道が整備されている。南城を経由して登るルートもあるが、入口は小屋脇でわかりづらい。
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