築城年代は定かではない。 城主は久礼田氏で、三代長宗我部忠俊の弟親左衛門忠幸が久礼田氏を名乗った事に始まるとされる。
長宗我部元親の頃の城主は久礼田定祐で天正6年(1578年)に没した。土佐一条氏五代の一条兼定が長宗我部元親によって中村城を追われると、子の一条内政は大津城へ移され大津御所と呼ばれた。天正8年(1580年)内政は謀反に加担したとして追放され程なく病死、内政の子政親は久礼田氏によって養育され、久礼田御所と呼ばれた。政親は家督を継いだものの、関ヶ原合戦によって長宗我部氏は改易となり、京へ上ったとも大和へ移ったとも伝えられる。
久礼田城は久礼田地区の北方にある標高168mの山頂に築かれていた。 現在は山頂部を除いてパシフィック・ゴルフクラブとなっているが、山頂部の遺構は良好に残っている。
主郭には周囲に土塁が巡らされ、土塁は北東側が高く南西側は低くなっている。 北東側に空堀を挟んで二ノ段があり、その北東側に規模の大きい空堀が横堀として巡らされている。
久礼田城の土居は南東麓の久礼田集落にあったといい、「沖ノ土居城」、「中ノ土居城」、「東ノ土居」などがあったというが、現在は宅地や田畑となっている。
パシフィック・ゴルフクラブを目指す。ゴルフ場のフロントの向かいにある小山が城址で、北側に入口が設けられている。ゴルフ場となって開発されて消滅した城跡は数多くあるが、このように一部でも残されて整備されているのはありがたい。
また、久礼田城の標柱と久礼田氏の案内板は久礼田小学校の所にある。
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