築城年代は定かではない。伊予の御荘氏の支城の一つで、尾崎藤兵衛尉が守っていたという。
天正3年(1575年)小深浦城主山本兵庫が長宗我部勢に攻められ落城したときには、手勢を率いて小深浦新城に籠城し、奇計を用いて2ヶ月あまり耐えたと伝えられる。
天正11年(1573年)には長宗我部氏が猿越城と緑城を攻め落としたため、尾崎藤兵衛尉は本城へ退いたという。
小深浦新城は予土国境に近い標高315mの新城山に築かれている。遍路道として知られる松尾峠からは東に位置する。
小深浦新城は新城山山頂を主郭として南へ伸びた尾根に曲輪を展開している。全体的に曲輪の塁線は直線的で長方形に近い形のものが多く、支尾根は堀切で遮断されており、非常に整った縄張の城である。
主郭Iは南北に長い長方形で北半分に土塁があり、北端は土壇があってやや高い。虎口は明確ではないが南東隅部分が崩れていて曲輪IIとつながる山道がついている。北尾根には堀切10と11の二条、北東の支尾根にも堀切9が確認できる。
曲輪IIは南側は削平され、北側は坂が残って小さな段々を造成して主郭Iにつながる。
曲輪IIIは南北に長く、北側は自然傾斜を残すが南側は削平され土塁がある。土塁の内側には一部石を並べている。南端に虎口があり、外側に湾曲した土塁がついて南下の武者走りにつながる。
曲輪IVは南西に伸びた尾根にあり南端には土塁がある。南端西尾根に堀切7、南尾根は岩盤を削った堀力6で遮断している。
曲輪Vは南東に伸びた尾根にあり東端から南にかけて土塁があり、この土塁も内側に石列がある。この曲輪は城内では唯一堀切によって遮断された曲輪になっている。武者走りと曲輪Vには木橋が架けられるところが残っており、ここを使って行き来することができる。南尾根は堀切1、東尾根は堀切2でその間に竪堀3を配置している。
現在曲輪IVに接続する山道があり、いまも使われているような道であるが、これが城道の可能性が高い。この道は比較的なだらかな尾根上を通って曲輪Vに上がらず、急峻な山腹に切り開かれており、曲輪Vの南下を通る。さらにこの竪堀5によって側面への移動が抑止され城内に至る。尾根伝いに曲輪Vが攻められ占領された場合も堀切4によって切り離すことが可能であり、こちらから攻められることを想定した縄張と考えられる。
南麓の錦集落から登る。白皇神社前に錦集会所があり、その前の空き地に駐車しても良いということで、そこから遍路道を歩く。
遍路道にはいってすぐに墓地へ上がる道があり、墓地の一番上に動物除け柵の開口部があるので、そこから山に入ることができる。
雑木林が多いが比較的踏み跡がしっかりした山道が続いている。
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