築城年代は定かではない。城主は福良丹後守宗澄で東氏とも称した。 福良氏の祖は河野十八家の一つで仁井田庄司殿と呼ばれていた。
天文年間(1532年〜1555年)に一条房基に攻められて降ったが、後に長宗我部元親に従った。宗澄は朝鮮の役で討死したという。
本在家城は四万十川と小野川が合流する地点の北東に聳える標高330m程の山に築かれている。
主郭部は山頂にあり南北に長い尾根上に曲輪群IとIIを配し、東へ伸びる2つの尾根に曲輪III、IVがある。そして周囲に伸びる尾根に多重の堀切、側面には畝状竪堀群を設けている。
主郭はI1で北端に土塁が付き、東側に小規模な曲輪I2が付属する。主郭の南側には三段の曲輪群IIがあり、南端の腰曲輪II3は低い土塁がある。曲輪IとIIの間にあるAの部分は堀切状に辺込んでいるが、虎口のような印象を受ける。特に東へ伸びる竪堀状地形の下方はそのまま曲輪群Vの方に続く通路が接続する。また西側も2つの竪土塁の間を下ると小規模な空間がある。
主郭部から東へ伸びる2つの尾根に曲輪群IIIとIVがある。曲輪IIIは尾根をあまり加工せず武者走りとして尾根中央に竪堀状の溝を作り両サイドが土塁状になる。南東端はL字の土塁で一部石塁になっており、その先の尾根を堀切5で遮断する。また南の谷筋にそって武者走りがあり、この部分も遺構と考えられる。
曲輪群IVもIII同様尾根の両サイドを武者走りに加工して南側のみ土塁を構築する。南側面には切岸の外側に小規模な犬走があり、東端は竪堀8が落としてある。この尾根の南東端を堀切7で遮断する。
主郭部I、IIから続く尾根は概ね多重堀切で遮断し、側面には畝状竪堀群を設けている。特に南側の堀切10の両脇に続く畝状竪堀群9、10は深く明瞭な状態で残っている。
この南尾根の先端には独立した曲輪Vがあり、北背後に土塁を備え二重堀切V1で遮断、南西の尾根先にも堀切V2が確認できる。
整備された道はない。沖代部落集会所の前の道を谷筋に入っていくと墓地があり、そのあたりの沢に木橋が架けてあり山上に通じる道が曲輪Vの脇を通っている。
また南東の尾根の先にも墓地がありそこからも登っていける。
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