慶長8年(1603年)山内伊賀守一吉によって築かれた。
山内伊賀守一吉は関ケ原合戦後に土佐一国に封ぜられた山内一豊の重臣で、林勝吉と名乗っていたが、"一"の字を賜り林一吉、窪川城主五千石の領主となり山内姓も与えられ山内伊賀守一吉と名乗り、窪川山内氏となった。
窪川山内氏は慶長8年(1603年)山内一豊の命によって窪川城の対岸に古渓山城を築いて居城を移したが、元和元年(1616年)一国一城令によって廃城となり、麓に土居を構えた。
古渓山城は窪川駅の西に聳える標高273mの古渓山に築かれている。
小規模ながら石垣作りの近世城郭である。主郭は北端に櫓台があり南に虎口を開く。主郭の南西下には曲輪IIがあり、北西部を除いて土塁があり、南に虎口2、北に虎口3を開く。この曲輪Iと曲輪IIが概ね石垣造りとなっている。
曲輪IIの南虎口を出ると小さな曲輪IVから南東麓に大手道と思われるやや広い道が続いているが途中で崩落している。大手道の北側には土塁囲みの曲輪III、西には尾根に沿って曲輪Vが設けられている。
東尾根は大きな堀切1、西尾根も大きな堀切2で遮断しているが、西側には貯水タンクの先にも小さな堀切3が確認できるので、曲輪VIがあったと思われるが、堀切3の規模は他の堀切と比べてあまりに小さい。
曲輪IIの北虎口3はそのまま主郭の西下に犬走り状の通路があり、北尾根に続くのだが、北尾根は比較的傾斜が緩いにも関わらず、堀切などの遺構は見当たらない。
北側に四万十緑林公園があり大きな駐車場がある。駐車場から見える階段を登ると山上の展望台があり、その先に無線塔がある。無線塔からそのまま尾根上を南下すれば堀切1に至る。
最寄り駅(直線距離)