築城年代は定かではないが南北朝時代に築かれたと云われる。
千頭峯城は井伊道政が後醍醐天皇の皇子宗良親王とともに籠もった三岳城を本城とした西方の支城で井伊氏の一族奥山朝藤を守将として浜名神戸荘官県氏、大江氏などが籠もった城とされる。
千頭峯城は中千頭峯砦、長岩砦、鯉山砦などを従えた城砦群であったが、暦応2年(1339年)北朝方の高師兼によって攻められ落城した。
その後の動向については定かではないが、現在残る遺構は戦国時代の今川氏、もしくは徳川氏によるものと推測されており、南北朝時代の千頭峯城は東の標高202mの地点にある中千頭峯砦に推測する考えもある。
千頭峯城は釣橋川の東岸、摩訶耶寺の北東にある標高137.4mの山に築かれている。
主郭は山頂にあり、北から東下に二の曲輪がある。二の曲輪は北側が一段低くなっており、東西別郭となっているようだ。
主郭から南へ降る道沿いには段があり現在は登山道がそれを破壊する形で付いている。その一番下に位置するのが南曲輪で北を除く三方に土塁を設けている。この南曲輪は摩訶耶寺から登る大手道がたどり着く最初の曲輪で、現在はそのまま南斜面を登って登山道が付いているがもともとはここから西曲輪に至る道が大手道であったと推測する。
西曲輪は主郭の北西にあり西の二の曲輪とは堀切によって遮断されている。西の曲輪には四方を土塁で囲んだ曲輪があり東側に虎口を開いている。堀切に面してはこの西曲輪の土塁と西二の曲輪の土塁が面しており、堀切の先端からは南曲輪へ至る道が付いている。
山頂から南東に向かって延びる尾根には東曲輪があり、ここは土塁はなく二条の堀切で区画した二つの曲輪がある。また主郭から30m程東斜面を降った所に井戸曲輪がある。
摩訶耶寺を目指す。摩訶耶寺からも登山道があるがその北東側に見える千頭峯トンネルの南側の入口付近に千頭峯城専用の駐車場があり、そこから東曲輪を経て登る道がある。
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