永禄6年(1563年)和久義国によって築かれたと云われる。 丹波に入部した明智光秀によって滅ぼされ、帰農したという。
山家城は近世山家陣屋の東背後に聳える標高236mの山に築かれた中世山城である。現地では近世山家陣屋のことを山家城と呼び、中世山家城を甲ヶ峰城と呼んでいるようであるが、ここでは各資料と同様山城を山家城として紹介する。
山家城は小規模な山城で主郭部は小さな南北二段に分かれ、南に帯曲輪を配し、南西下に一段の腰曲輪を設けている。北東背後は堀切、南西尾根先は堀切に土橋が架かる。小規模であるが、尾根からの道は土橋を渡って正面を左へ曲がり、突き当たりを右へ大きく折り返して腰曲輪に入るようになっており、通路には横矢が架かり、折り返しの部分の奥には竪堀を設けて側面への移動を制限するなど、技巧的な一面がある。