築城年代は定かではないが南北朝時代に仁木頼章が高見城の支城として築いたのが始まりという。
細川晴元の家臣赤沢蔵人景盛が城主のとき波多野氏に攻められ、一度はこれを撃退したが、天文2年(1533年)に落城したという。
その後、後野城の赤井氏が勢力を伸ばすとその属城となり、赤井景遠が城主となった。天正年間(1573年〜1592年)には稲継壱岐守が城主であったが、天正7年(1579年)に明智光秀によって攻められ落城した。
母坪城は高見城から北へ伸びた丘陵の先端で、加古川と柏原川が合流する地点にある。
南は一応尾根続きではあるものの比高60mのほぼ独立丘陵で北は川が天然の濠となる。
山頂の主郭を中心に南北に伸びた尾根に曲輪を展開しており、北は途中に二重堀切があり、先端の方の曲輪は後世の改変があるが北端まで城域とみて良いだろう。
主郭の南下は東西両側が堀込まれて細くなり、東側面には大きな竪堀を設けている。最大の特徴は南側面に設けられた二条の竪堀があり、この間に段曲輪を配している。南山腹には無数の段曲輪があり、畑跡とも考えられるが、この城の大手は南であり、竪堀や堀切もあることから城の遺構とも考えられる。南端は神社に続く鞍部の墓地のところに堀切がある。
北の国道沿いに道標があるが整備された道はない。北端の国道から山に入る小道があり、よじ登れば北端の曲輪に至る。そのまま南へ下ると墓地があり、そこから出ることもできる。
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