築城年代は定かではない。はじめ北条氏の家臣遠山民部が守っていたという。
天正9年(1581年)北条方の戸倉城主笠原政堯が武田氏に寝返ったことから、北条氏は出城山を築くとともに北条氏光を大平新城に置いて守らせた。同年笠原政堯によって攻められ、これに対応する形で北条氏勝も大平新城に置いて守らせた。
天正10年(1582年)には徳川領となり牧野康成と久能宗能が守備していた。天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原攻めによって廃城となったとされる。
大平新城は圓教寺の南背後の山に築かれており、現在は墓地や七面堂などが建っている。この大平新城よりさらに南に登ったところに大平古城と名付けられた新しい城跡が確認されている。
大平新城は富南城址の看板のある麓に近い曲輪群と、七面堂から南の大平古城に続く尾根に築かれた山上の曲輪群に分けられる。主郭ははっきりしないが、富南城址の看板のある曲輪がそれに該当するかもしれない。
山上の曲輪群は七面堂のあるところが広く削平され、南に高土塁のような地形が残っているが、このあたりは大きく削られて七面堂が建っているのではないだろうか。ここから南の大平古城に向う尾根上には二ヶ所の小さな削平地があるがほぼ自然地形である。しかしやや離れたところにある堀切はしっかりと二ヶ所に設けてある。
登山口は圓教寺境内にあり入口に案内版が設置されている。圓教寺の駐車場に駐めさせていただいた。
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