築城年代は定かではないが鎌倉時代末期に塔原氏によって築かれたと云われる。 塔原氏は海野氏の一族で川手郷の地頭となり塔原氏を称した。
天文22年(1553年)武田氏の苅谷原城攻めに際して塔ノ原城も戦わずに落城、その後、武田氏に降った。
天正11年(1583年)海野三河守幸貞は、稲倉城主で苅谷原城を任されていた赤沢清経や小岩嶽城主古厩氏らと結んで上杉氏に通じて謀叛を企てたが露呈し、幸貞は松本城で謀殺され塔原氏は滅亡した。
塔ノ原城は犀川と会田川との間に聳える長峰山から北へ伸びた尾根の一つ、標高750m程の尾根の先端頂部に築かれている。
主郭は南北二段の曲輪で南端に土塁が付いている。主郭の南背後は六条もの堀切によって厳重に遮断している。主郭から浅い空堀を隔てて北へ降りていくと、西側を土塁状に高く残した小段が続いている。部分的に土塁の付いた小郭や、通路が残っている。
明科駅の北側、国道19号線から県道302号線に入り坂を登ると、南側に天平の森(長峰山)に至る道がある。この道を入ってしばらく行くと塔ノ原城の道標が出ている。
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