築城年代は定かではないが沢渡氏(さわと)によって築かれたと云われる。 沢渡氏は仁科氏の庶流であるが、比較的早くより分流した一族とみられ、応永7年(1400年)大塔合戦に沢渡五郎の名が残る。
天文14年(1545年)から沢渡兵部盛方が領し、元亀元年(1570年)に武田氏に従って駿河国花沢城を攻め討死したと伝える。
天正10年(1582年)沢渡盛忠のときに武田氏が滅亡し、その後は松本城に復帰した小笠原貞慶に仕えた。 神明社本殿は、棟札によって天正16年(1588年)沢渡九八郎盛忠と牛乗父子の奉仕で造営されたことが知られる。 天正18年(1590年)小笠原氏は下総国古河城三万石に転封となり、沢渡氏もこれに従ってこの地を去った。
大宮城は三日市場の神明社の東背後にある標高878mの山頂に築かれている。 東西二郭の小城であるが、二重の横堀や連続竪堀を設けるなど、コンパクトにまとめた要害になっている。また西麓にある三日市館が沢渡氏の居館である。
大宮城は南北二郭の城で、東郭が西郭よりやや高く主郭とみられる。 東郭と西郭との間は空堀があり、その空堀は東郭の北側を横堀となって巡り東側の堀切まで通じる。西郭は周囲を帯曲輪が巡り、北側から西側に横堀が巡る。北側の横堀は東郭も含み、先の横堀と併せて二重となる。また西郭も西側では更に外側に横堀があり、こちらも二重になる。北側斜面には横堀から連続竪堀があり、一部の横堀は竪堀と連結されている。
東郭から東へ伸びた尾根は二条の堀切によって遮断する。西郭から西へ伸びる尾根にはいくつかの小段が付いている。
西側の中腹にある神明社が目印で、神社の東背後の山上が城址。道は付いていないが、良く管理された山で簡単に登ることができる。 神明社の案内板に大宮城に関する記述がある。
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