安元元年(1175年)足利俊綱によって築かれたと云われる。 治承5年俊綱は志田義広が源頼朝に背いて挙兵したとき、義広に応じたが敗れ家臣桐生六郎によって殺害されたという。
建久元年(1190年)戸賀崎義宗が城主となり城を再興したという。 戦国時代には子孫赤見伊賀守の時、佐野泰綱に背いたため泰綱に攻められ敗れ常陸国へ逃れた。その後は佐野氏の支城となったという。
城は本丸を中心に、南東に二の丸、南に三の丸、北に北の丸、西に西の丸があったと伝えられている。
現在は本丸が赤見城保育園の敷地となっているが、南側を除く三方が高土塁で囲まれ、その周囲を濠が巡る。西側と北西側の土塁は二重になっており、この土塁の外側にも濠がある。城の中心部の一部しか残っていないが、残存部の状態は非常に良好である。