築城年代は定かではないが文治2年(1186年)に戸奈良五郎宗綱よって築かれたと云われる。
戸奈良五郎宗綱は佐野実綱の子で宝治元年(1247年)の宝治合戦で父実綱とともに討死し、鰻山城も廃城になったと云われる。
鰻山城は旗川に面した比高20mほどの丘陵に築かれている。全体的にヤブが多いが主郭の土塁上に石碑があり、佐野氏で行われた山城サミットのときの幟があった。
南北に長い丘陵の北端部分が城域で、西を除く三方に土塁を設けた主郭があり、北と南をそれぞれ二条の空堀で遮断している。空堀はそれぞれ西側に竪堀として長く伸びており、主郭から西に段々と曲輪を造成し、東側は曲輪を設けていない。縄張を見た印象は戦国時代の城と思われる。
西側にある番場公民館のところから山に入ったが、正規の入口はもっと南の民家の脇にあり、入口に小さな木の道標が付いている。
最寄り駅(直線距離)