築城年代は定かではないが、建久年間(1190年〜1199年)頃に薩摩郡司薩摩太郎忠友の居城であったと伝えられる。
室町時代には薩摩総州家の所領となっており、応永26年(1419年)永利城の島津山城守忠朝は薩摩奥州家の島津久豊・入来院重長・市来家親によって攻められ、永利城は落城し二福城へ退いた。応永28年(1421年)にはこの二福城も攻められ忠朝は島津久豊に降った。
その後は入来院氏の所領となり、入来院重聡はこの二福城を拠点としていた。 元亀元年(1570年)渋谷一族の入来院氏や東郷氏など島津に抵抗していた諸勢力は島津義久に降り、広大な勢力を持っていた入来院氏も入来院の清色城のみを安堵された。その後、島津義久の弟家久が隈之城地頭職として二福城を拠点としたという。
二福城は隈之城小学校の南側にある比高10m程の低丘陵に築かれていた。 現在丘陵は宅地となっており、明瞭な遺構を確認することはできないが、北側への道は鈎状に屈折した道になっており、二福城か隈之城麓の名残であろう。子安観音の所に二福城の石碑が建っている。