築城年代は定かではないが鎌倉時代に上野忠宗によって築かれたと云われる。 上野氏は薩摩郡司忠友の弟忠宗より始まり、百次四郎太郎忠宗とも称した。
上野氏は百次城を居城として南北朝時代まで続いたが、南北朝時代末期頃には衰退した。 その後は島津総州家、入来院氏の所領となったとみられ、天文5年(1536年)には島津勝久から入来院重聡に対して百次城所領の充行状が出されている。
百次城は南北に伸びた低丘陵に築かれている。 現在丘陵上は宅地や畑となっており、遺構を探すのが難しいと思われていたが、北東側の部分が近年木々が伐採されたようで、ここに北東隅部と思われる土塁とその北側に空堀が残っていた。
城郭大系によれば、北が大手、南が搦手、南北に走る道路は元空堀で、これと東西に走る二条の空堀によって四郭で分かれていたということである。
北の麓には曹洞宗福昌寺の末寺の善応寺跡があり、ここには百次城主で元亀元年(1570年)冠嶽で島津家久と戦って討ち死にした入来院淡路守と善応寺の僧古月の供養塔が残る。
また、集落の南側には上野氏関係石塔群(薩摩川内市指定文化財)があり、上野氏に関係する宝塔・宝篋印塔など十数基が残る。この中で上野忠真夫妻の墓とされる宝篋印塔には、元亨4年(1324年)の銘があり、納骨孔に骨灰が納められ極めて珍しいものだという。
県道36号線沿いに上野城跡、上野氏関係石塔群の道標が出ている。 城の遺構はそこから集落内に入る上り坂の途中東側にあり、奥に土塁が見える。上野氏関係石塔群はこの道をずっと南へ進んだ所、善応寺跡は登る手前に道標が出ている。坂の入口にある和田公民館に駐車して歩くのが良いだろう。
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