築城年代は定かではないが鎌倉時代に串木野三郎忠道によって築かれたと云われる。 以後、代々串木野氏の居城であったが、南北朝時代の康永元年・興国3年(1342年)に島津貞久が市来鶴丸城主の時家を降すと、串木野城にも攻め寄せ、串木野忠秋は城を明け渡して知覧へ逃れ、串木野氏は滅亡した。
串木野が島津氏の所領となると、文明年間(1469年〜1487年)には川上忠塞が城主となり、栄久、忠克と続く。しかし、川上忠克は島津実久に味方したことから、天文8年(1539年)島津忠良に攻められ降伏し、甑島に配流となった。その後、山田有徳、有信が串木野地頭を務めたが、元亀元年(1570年)島津貴久の四男家久が隈之城地頭となると串木野の地頭も兼ねた。家久は天正7年(1579年)日向国佐土原へ転封となった。
串木野城は串木野icと串木野駅の間にある比高20m程の丘陵に築かれている。
串木野城は深い空堀で区画された群郭式山城で、曲輪の一つである南方神社の西側一帯が城の中心となる。以前は荒廃した竹藪で歩くこともままならなかったが、近年地元の方の整備によって空堀や曲輪の一部が歩きやすく整備されている。
南の道路から南方神社に向かって行くと案内板が設置されている。南方神社の近くに登口があり案内が出ている。
最寄り駅(直線距離)