永吉麓は島津貴久の四男島津家久を祖とする永吉島津家の麓である。永吉島津家は日向国佐土原藩であったが、関ヶ原合戦で島津豊久が討死したことから佐土原藩は消滅、その後、豊久の弟忠仍が家督を継ぐことになったが、病弱を理由に辞退し、喜入忠続の子・忠栄が養子に迎えられ永吉島津家として再興された。
永吉地区地域マップによれば、永吉麓の御仮屋は永吉小学校から県道に沿って東へ向かった方にあったようである。御仮屋を探してみたが、特に標柱などは見あたらなかった。麓の武家屋敷は小学校の前の辺りに武家門が確認できたが、あまり残されていないようである。
永吉島津家の祖となる島津家久の墓が梅天寺跡、豊久以降の墓が天昌寺跡にある。