応安元年(1368年)に藤原光業によって築かれたと云われる。 藤原氏は後に新名氏(高田氏)を名乗った。
天正7年(1579年)長宗我部軍による中讃一帯の攻略が始まり、鷲山城主の新名内膳助も長宗我部氏に降った。天正11年(1583年)新名氏は長宗我部氏に討たれ、入交孫右衛門が鷲山城主となったが、天正13年(1585年)の豊臣秀吉による四国征伐で土佐に退去した。
鷲山城は鷲峰寺(じゅうぶじ)の背後に聳える標高322.4mの鷲ノ山に築かれている。
鷲山城は細尾根の山で城域の北端から南端にある堀切までは広範囲であるが、曲輪と呼べるような削平地は山頂と北峰、山頂から東へ伸びた尾根の先端、北峰から東へ伸びた尾根の先端の四ヶ所くらいで、あとはほぼ自然尾根のような印象である。したがって曲輪間の連携と呼べるようなものはなく、南北朝時代など比較的古い形態の山城ではないだろうか。
登山道はいくつかあるようだが、わかりやすいのは鷲峰寺からの道で、本堂の南から八十八ヶ所ミニ霊場経由で登る事ができる。
最寄り駅(直線距離)