築城年代は定かではないが永禄年間(1558年〜1570年)に黒川玄蕃佐によって築かれたと云われる。
黒川氏は佐々木六角氏に従っていたが、六角氏が織田信長に攻められ没落すると信長に従った。その後は秀吉に従ったが、天正13年(1585年)紀州攻めの際の失策により甲賀武士は所領を没収された。関ヶ原合戦で山岡景友(道阿弥)に従って徳川方として戦い、江戸時代は旗本として存続した。
黒川氏城は野洲川にウグイ川が合流する地点の南側の丘陵に築かれている。標高380m付近に主郭を置き、北へ伸びた丘陵に屋敷跡と見られる土塁と堀で区画した曲輪群を連ねる縄張りで、甲賀地方では比較的大規模な城郭である。
黒川氏城は主郭部と北山腹の屋敷跡曲輪群とに分けて考えることができる。
主郭部は山頂に南北にやや長い長方形の曲輪があり土塁が巡る。土塁は内側に石積を伴っており、北と西にそれぞれ虎口がある。北虎口は右折れで東側面から北へ降りて空堀へ降りる。一方西の虎口は幅広く左折れで石段を伴っている。中世山城で一段が残るのは極めて珍しく貴重である。ここから西下の曲輪iiへおり、さらに西尾根下へ降りて北の空堀へ降りるルートになっている。北と西の虎口から降りるルートはともに北中央の桝形状空間に合流し、屋敷曲輪群に至っている。
屋敷曲輪群は土塁が巡る広い曲輪が整然と並び、二つの曲輪の土塁の間が通路となる。虎口付近には石積を使っている。
主郭の南背後は高い切岸があり、二段の横堀が巡らされている。切岸は高く裾野に横堀が巡り、外側が土塁となる構造は見応えのある遺構である。
北に拡がる屋敷跡と見られる曲輪群は南北の横堀や土塁で区画されており、西側の堀底道がそのまま北の麓まで通じている。北端付近には「前田屋敷」や「辻屋敷」などの名称が残り、「辻屋敷」は辻和泉守に由来する名称と推測されている。
北麓の野洲川との合流地点に公園があり駐車場を利用できる。県道507号線の東側に案内板が設置されており、南の水田を囲む柵を明けて奥へ進めば登城口がある。