築城年代は定かではないが享徳3年(1455年)頃に島津李久によって築かれたと云われる。 李久は島津忠国の弟で島津氏が平山氏を制した後、帖佐は李久に与えられ瓜生野城を築いたという。
李久の子忠廉は文明18年(1486年)島津忠昌の日向国伊東氏攻めに従軍し、日向国飫肥へ移った為、瓜生野城は廃城となった。
関ヶ原合戦後には徳川家康が加藤清正を先鋒として薩摩に攻め入るとの風聞があり、島津義弘が改修したともいわれ、また島津家久(忠恒)は鶴丸城にかわってこの建昌城を本城にしようとしたという。建昌城の名は明人頴川三官が中国の建昌城に似ているといったことから建昌城「けんしょうじょう」または「たてまさじょう」と呼ばれている。
城は桜島saの北にある台地の上に築かれている。国土地理院の地図では工場のような建物が記されているが、現状は更地で史跡公園として整備されようとしている。
台地の上はほとんど高低差のない平地で、台地の東側を中心に本丸、二の丸などが築かれている。台地の上ではあるが、平城のような深く広い空堀を巡らし、櫓台や土塁があり曲輪の状態は良い状態で残っている。現在史跡公園として整備しているようで、取り付け道路の工事が行われていた。今後城跡も整備されるであろうから、薮のようになっている所も整備されればより楽しめるだろう。
姶良総合運動公園前の県道446号線をそのまま北上し、高速道路の高架橋下を潜って山へと入って行くと、右側に建昌城の標柱が建っている。取り付け道路は現在工事中で2009年11月頃には完成する模様。
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