築城年代は定かではないが祁答院良重によって築かれたと云われる。
天文23年(1554年)蒲生範清は祁答院氏等と連合して島津氏に叛き、島津方の肝付兼演の加治木城を攻撃した。島津氏は岩剱城を攻めることで加治木城に攻め寄せている蒲生方を牽制して肝付氏の救援を計った。この戦いで島津義久・義弘・歳久の三兄弟が揃って初陣を飾ることとなるが、島津忠良(日新斎)は、「三兄弟のうちの誰かが死なねば落ちまい」と語ったと伝えられる程の堅城であった。この戦いは激戦となって島津忠将が種子島を使い、岩剱城祁答院勢も種子島で応戦するなど日本ではじめて鉄砲を使用した本格的な戦いとなったという。加治木城に攻め寄せていた蒲生範清は岩剱城が取り囲まれた事を知ると加治木城の囲みを解いて岩剱城へ向かい、島津氏との激戦の末、祁答院良重の嫡子重経らが討死して蒲生氏は敗走、岩剱城に籠っていた残兵も夜陰に紛れて城を逃げ出し岩剱城は島津氏の手に落ち、その後は島津義弘が在番することとなり平松城を築いた。
岩剱城は「剣の岡」と呼ばれる標高225mの山に築かれており、南西の尾根を除いた三方は崖に囲まれた要害である。
主郭は北東端の山頂部で山頂を中心に南西側に広く段曲輪を配している。南西に伸びる尾根の先に土塁の付いた曲輪があり、内側などに一部石積がある。この曲輪の南西下に大きな堀切があり、そこから南西に向かって伸びた尾根に9条の堀切を設けているが、曲輪と呼ぶ程の平坦面はわずかである。
岩剱神社の境内に案内板がある。境内脇から山へ続く車道の途中に登山道入口がある。
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