築城年代は定かではないが寛元年間(1243年〜1247年)に満家上総介重賢によって築かれたと云われる。 信濃国守護志田三郎左衛門頼重が故あって薩摩へ流され、島津忠久の庇護を受けて比志島に住み、満家院郡司孫大夫永平の女を娶り生まれた重賢が、祖父満家の家を継いで満家氏を名乗ったという。
満家重賢の子祐範は比志島氏を名乗りって比志島氏の祖となり、比志島城を代々の居城として続き、天正15年(1587年)比志島義基の時、日向国曽井に移ったという。
比志島城は南の山塊から北へ張り出した丘陵の先端頂部に築かれている。
比志島城は丘陵の南背後を深い空堀で区画して独立させ、南の頂部に主郭、北下に二郭を配し、その西側に三郭を配している。
主郭は南背後に高土塁を築き南端は広く櫓台になっている。その背後にはシラス台地特有に深く垂直に掘り下げられた空堀を巡らせ断ち切っている。中央付近に二郭へ通じる虎口がある。
二郭は主郭の北にあって広く、北から東側にかけて土塁が残る。南西側に虎口があり、そこから西下、北へと回って降りる通路は垂直に掘り下げられた堀底の通路で、この虎口付近に若干の石積が残る。この二郭と通路を挟んだ反対側にあるのが三郭で、通路に面して北側に向かって段々と削平地になっている。
皆与志小学校を目指す。小学校前の道を1km弱東へ進んで行くと中公民館がある。この南側に見える丘陵が城山で、城山には北側から中に入る通路がありそのまま二郭まで通じている。
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