築城年代は定かではないが弘安年間(1278年〜1288年)に石清水善法寺了清によって築かれたと云われる。 了清は神領管理の為に下向して平山城を築き、平山氏を称して代々の居城となった。
平山氏は享徳年間初期に島津忠国に反抗して指宿へ移され、帖佐は島津李久の所領となった。李久は瓜生野城を築いて居城とした為、平山城には二男忠康が在城した。忠康も平山氏を称したが、平山氏は後に日向国松山城へ移り明応4年(1495年)には帖佐は川上忠直が領した。同年加治木久平が攻め寄せ南城を奪われたが忠直は高尾城に籠って堅く守り、島津忠昌の援軍によって久平は退いた。
大永6年(1526年)川上忠直が島津本家に叛いて島津実久に付くと、島津忠良はこれを攻め島津昌久を地頭とした。しかし大永7年(1527年)昌久は加治木の伊地知重貞と謀って叛き、忠良は加治木を攻めて重貞を討ち取った後、平山城を攻めた昌久を殺し伊地知重辰を地頭とした。重辰は享禄2年(1529年)祁答院重武によって攻められ討死した。祁答院氏は子の良重の代まで勢力を広げたが天文23年(1554年)岩剱城で島津氏に敗れ、平山城に退いたが弘治元年(1555年)祁答院へ退いた。
城は帖佐八幡神社の北に築かれている。 帖佐八幡神社は了清が城内に創建したものだという。
山上は概ね広く平坦で平城のような空堀を南北に用いて曲輪を形成している。 現在では木々が茂って荒れているが、数十年前まではこの辺りにも集落があり、数件の民家が曲輪の中に建っていたのだという。
帖佐小学校の所に案内板があり、八幡神社まで林道が通っている。
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