築城年代は定かではないが鎌倉時代頃に遠藤氏によって築かれたと云われる。 遠藤氏は藤原南家の流れを汲む文覚上人(遠藤盛遠)の後裔で、遠藤盛継が鎌倉公方足利満兼から志田郡・玉造郡・加美郡の郡奉行に任ぜられ、応永8年(1401年)に陸奥国へ下向したことに始まる。
天文5年(1536年)大崎氏の内訌に際して、十五代遠藤光定は伊達稙宗に従って大崎氏の古川城攻めに参陣している。
天正16年(1588年)の大崎合戦のときは遠藤高康で、伊達氏の軍勢はこの千石城に集結して大崎氏の中新田城攻めの軍議が開かれた。
天正18年(1590年)秀吉の奥州仕置きにより大崎氏や葛西氏は改易となり、大崎葛西一揆を経て伊達氏の所領再編により、遠藤氏は陸奥国登米郡石森へ移封となり、替わって千石城に石川昭光、慶長3年(1598年)からは吉内重直(案内板は古田とあるが誤り)と続き、慶長8年(1603年)には茂庭良元が城主となった。寛永8年(1631年)には上野館を築き、やがて領主の館は千石城から上野館へと移っていった。
西麓にある桃源院は遠藤氏所縁の寺院で、遠藤氏の居館があった所とも考えられている。ここには遠藤氏の供養塔が建っている。
千石城は北へ伸びた丘陵に築かれており、現在は御本丸公園として整備されている。
千石城は南端頂部の本丸から北へ向かって二ノ丸・三ノ丸と続く縄張である。 城内で最も広い曲輪が北端の三ノ丸で、ここが近世当初に居館が置かれた所である。 三ノ丸一帯は公園として大きく改変されたようで、周囲に土塁状の地形が巡り、西端には櫓台のような高い地形が残る。
三ノ丸から南へ遊歩道があり、堀切で区画されて二ノ丸・本丸へと続く。本丸には縄張図入りの案内板が置かれている。
県道242号線から御本丸公園へと続く車道があり、三ノ丸のすぐ下に駐車場がある。
最寄り駅(直線距離)