陸奥 千石城むつ せんごくじょう

城郭放浪記


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陸奥 千石城の写真
掲載写真数
形態
山城(73m/60m)
別 名
文覚館,千石館
文化財指定
なし
遺 構
土塁,郭,堀
城 主
遠藤氏,石川昭光,吉内重直,茂庭氏
歴 史

築城年代は定かではないが鎌倉時代頃に遠藤氏によって築かれたと云われる。 遠藤氏は藤原南家の流れを汲む文覚上人(遠藤盛遠)の後裔で、遠藤盛継が鎌倉公方足利満兼から志田郡・玉造郡・加美郡の郡奉行に任ぜられ、応永8年(1401年)に陸奥国へ下向したことに始まる。

天文5年(1536年)大崎氏の内訌に際して、十五代遠藤光定は伊達稙宗に従って大崎氏の古川城攻めに参陣している。

天正16年(1588年)の大崎合戦のときは遠藤高康で、伊達氏の軍勢はこの千石城に集結して大崎氏の中新田城攻めの軍議が開かれた。

天正18年(1590年)秀吉の奥州仕置きにより大崎氏や葛西氏は改易となり、大崎葛西一揆を経て伊達氏の所領再編により、遠藤氏は陸奥国登米郡石森へ移封となり、替わって千石城に石川昭光、慶長3年(1598年)からは吉内重直(案内板は古田とあるが誤り)と続き、慶長8年(1603年)には茂庭良元が城主となった。寛永8年(1631年)には上野館を築き、やがて領主の館は千石城から上野館へと移っていった。

西麓にある桃源院は遠藤氏所縁の寺院で、遠藤氏の居館があった所とも考えられている。ここには遠藤氏の供養塔が建っている。

説 明

千石城は北へ伸びた丘陵に築かれており、現在は御本丸公園として整備されている。

千石城は南端頂部の本丸から北へ向かって二ノ丸・三ノ丸と続く縄張である。 城内で最も広い曲輪が北端の三ノ丸で、ここが近世当初に居館が置かれた所である。 三ノ丸一帯は公園として大きく改変されたようで、周囲に土塁状の地形が巡り、西端には櫓台のような高い地形が残る。

三ノ丸から南へ遊歩道があり、堀切で区画されて二ノ丸・本丸へと続く。本丸には縄張図入りの案内板が置かれている。

案 内

県道242号線から御本丸公園へと続く車道があり、三ノ丸のすぐ下に駐車場がある。

最寄り駅(直線距離)
2.1km 松山町駅
4.1km 小牛田駅
5.2km 鹿島台駅
6.4km 上涌谷駅
6.6km 北浦駅
所在地/地図
宮城県大崎市松山千石(御本丸公園)
付近の城(直線距離)
0.8km 陸奥 上野館
2.2km 陸奥 広長城
3.9km 陸奥 彫堂七館
4.5km 陸奥 平渡館
5.1km 陸奥 文覚館
5.8km 陸奥 古館(鹿島台)
6.0km 陸奥 兵庫館
6.5km 陸奥 小台館
6.8km 陸奥 大窪館
7.1km 陸奥 築館
7.8km 陸奥 花楯城
8.0km 陸奥 師山城
8.2km 陸奥 涌谷城
8.8km 陸奥 百々城
9.2km 陸奥 桑折城
9.6km 陸奥 六郎館
最終訪問日
2012年5月
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