築城年代は定かではない。 室町時代には大崎氏の一族である百々氏の居城であった。
天文5年(1536年)大崎氏天文の内訌では百々直孝が大崎直方に味方している。天正16年(1588年)氏家吉継の反乱をきっかけとする大崎合戦では、百々左京隆元が師山城に籠もって伊達軍と戦った。
天正18年(1590年)豊臣秀吉に小田原征伐に参陣しなかった大崎氏は奥州仕置きにより改易となり、この地は伊達政宗に与えられた。政宗は天正19年(1591年)亘理城主亘理重宗を遠田郡への転封を命じ、重宗は最初百々城を居城としたが翌年涌谷城へ移り、家臣の長谷景重を百々城に置いた。しかし、長谷氏もまた寛文年間(1661年〜1673年)に涌谷城へ移り百々城は廃城となった。
百々城は南に開いた谷間を覆うように東西両尾根が南へ伸びており、その形から鶴城とも呼ばれている。
県道173号線沿いに案内板が設置されており、その北背後にある山が城山であるが、本丸部分は密集した竹藪となっており、遺構を確認するのは難しいようである。
百々城は東西に開く尾根の中心部分に本丸を置き、西尾根側に二の丸、三の丸を配していた。南に拡がる谷間は馬場と呼ばれ、南端の入口部分を桝形と称している。案内板のある所から東へ進むと谷間の集落への入口があり、この辺りが桝形である。そこから北へ入って行くと左側山腹に妙見社があり、この上の畑地になっている部分が二の丸である。そこから北へ進んでいけば本丸なのだが、とても入り込めるような隙間のない竹藪がそこにある。