築城年代は定かではないが天文年間(1532年〜1555年)に高清水(高泉)直堅によって築かれたと云われる。 直堅は大崎氏九代大崎義兼の三男である。
大崎氏は次第に伊達氏の支配に組み込まれるようになり、天正18年(1590年)小田原合戦に参陣しなかったことから、秀吉による奥州仕置きにより改易となった。
大崎・葛西一揆を経て伊達氏の所領となると、慶長9年(1604年)涌谷城主であった亘理重宗が隠居すると、一千石の隠居領で高清水要害に移った。慶長11年(1606年)伊達政宗の庶子宗根が亘理重宗の娘を娶り、あわせて亘理家の名跡を継ぐこととなったため、涌谷城主であった重宗の嫡男定宗には伊達姓が与えられ、以後涌谷伊達氏となっている。
高清水の亘理氏は宝暦7年(1757年)亘理氏は佐沼要害へ移り、替わって石母田氏が城主となり明治まで続いた。
高清水城は現在の高清水中学校の辺りに築かれていた。中学校の西側にある校門脇に案内板と石碑が建っている。
中学校の辺りが本丸で周囲を内堀が巡り、西に大手門、中門を開き、北側には外堀があった。現在残る遺構は中学校の北側にある外濠公園一帯で、第十区集会所桜館の北側に東西に伸びる土塁と外濠跡がある。西側の外濠跡は高清水運送の隣から南北に伸びている遊歩道となった部分である。