築城年代は定かではない。一説に文治年間(1185年〜1190年)に藤原秀衡の家臣照井太郎高直によって築かれたと云われる。
南北朝時代には葛西氏の持城であったが、文明年間(1469年〜1487年)頃には佐沼直信が城主であった。天文年間(1532年〜1555年)頃には大崎氏の家臣石川直村が城主となり、石川義誠・石川義広・石川彦九郎と四代にわたって城主となった。
天正18年(1590年)小田原合戦で葛西氏と大崎氏はともに小田原に参陣せず、秀吉の奥州仕置きにより改易となった。旧大崎・葛西領は秀吉の家臣木村吉清に与えられ寺池城を居城としたが、翌天正19年(1591年)旧大崎・葛西家臣を中心とした大崎葛西一揆が蜂起すると、木村吉清・清久父子は寺池城を追われ佐沼城へ逃れた。秀吉の要請により駆けつけた伊達政宗と蒲生氏郷の軍勢により一揆は退散、佐沼城へ押し込められていた木村父子も助かったが、一揆蜂起の責任を取らされ改易となり、蒲生氏郷の客将となった。
一揆の後、旧大崎・葛西領は伊達政宗に与えられ、佐沼城には出羽国大橋城主で重臣の(湯目)津田景康が置かれた。江戸時代に入ると佐沼要害となり、代々津田氏が城主となっていたが、宝暦6年(1756年)津田丹波守定康のとき、故あって改易となり、高清水要害より亘理伯耆守倫篤が佐沼へ移り、以後代々続いて明治に至る。
佐沼城は迫川に面した丘陵に築かれており、現在は本丸部分が鹿ヶ城公園として整備されている。
水堀を巡らせた本丸は土塁が巡り、東端部には櫓台のような高台があり神社が祀られている。西の麓には登米市歴史博物館と旧亘理邸があり、北西の西館には佐沼城主であった津田氏と亘理氏の墓所(写真は西館を参照。)がある。
登米市歴史博物館は入館無料で駐車場も完備している。
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