築城年代は定かではない。南朝方として活躍した北畠顕家の末裔と云われる北畠氏が浪岡の地に移ったのは文中・応永年間(1372年〜1428年)頃で北畠顕邦のときと考えられている。浪岡城が築かれたのはこの顕邦の子顕義の時代と考えられている。
北畠氏は浪岡氏を称して代々続いたが、永禄5年(1562年)川原御所を再興した北畠具信が浪岡具運を殺害するという内紛が起こり衰退、天正6年(1578年)浪岡顕村のとき、大浦(津軽)為信によって浪岡城が攻撃され顕村は捕らえられ、顕村は西根の寺で自害した。一説に舅の安東愛季を頼って檜山城近くの茶臼館に逃れたとも云われる。
浪岡氏の後は津軽氏の持城となったが後に廃城となった。
浪岡城は浪岡川北岸の微高地に築かれている。現在は国指定史跡として整備されている。
浪岡城は新館、東館、北館、猿楽館、内館、西館、検校館そして名称不明の無名の館からなり、その周囲には土塁や堀が巡らされていた。北館は発掘調査の結果検出された柱穴が表面復元されている。
県道沿いに「青森市中世の館」があり、浪岡城などの展示がなされている。城跡はここからさらに県道沿いに北東へ進んでいけば南側にあるが、駐車場は東館の南側に設置されている。
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