陸奥 前川本城むつ まえかわもとしろ

城郭放浪記


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陸奥 前川本城の写真
掲載写真数
形態
平山城(228m/40m)
別 名
中ノ内城,錦ヶ館
文化財指定
なし/不明
遺 構
石積,土塁,曲輪,堀切,横堀,竪堀,虎口
城 主
砂金氏
縄張図
前川本城縄張図
歴 史

築城年代は定かではないが砂金氏によって築かれたと云われる。 砂金氏(いさご)は延元年間(1136年〜1139年)に砂金常重が奥州にきて砂金村の守護人となったのが始まりとされる。

その後、伊達氏の家臣となり、天正3年(1575年)砂金常久のとき、砂金城から前川本城へ移った。慶長年間(1596年〜1615年)の砂金実常のとき、川崎城を築いて移った。

『東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形』では関ケ原合戦のときに上杉景勝に進攻された最上義光を救援するために伊達側の拠点となったのが砂金の地であったことから、このときに改修された城ではないかとしてあり、首肯できる。

説 明

前川本城は前川と立野川が合流する地点の西にある台地の東端に築かれており、現在は整備されている。

東へ伸びた丘陵の西側を巨大な二重横堀2で遮断し、東側を城域としている。北は立野川に面した絶壁である。

主郭Iは中央北側で土塁と横堀1で区画する。虎口は南中央の虎口1と東の虎口2が開口する。ともに木橋で接続していたようであるが、東の曲輪IV側にはちょうど虎口の対面に石が並べられており木橋に関連する石とも考えられるが、礎石としては小さすぎる。

主郭の西から南にかけては広い曲輪II、IIIがあり、これらは中央の仕切り土塁によって区画される。搦手口につながる虎口4は両方の曲輪に出入りできるようになっているが、ともに人ひとりが通れるほどの狭さである。

西尾根を遮断する横堀2は幅10mを超える大きなものである。この規模の二重横堀の場合、横堀間の土塁は低くなっていることが多いが、ここの土塁は曲輪と同じくらいの高さになっており、西側の丘陵もほぼ同じか逆に高いくらいで、城内側から城外を見下ろすような高低差にはなっていない。したがって横堀間にある土塁にはAのような小さな溝がきってあり、ここにも兵を配置して外側を警戒するような構造になっている。

主郭の東側は大手口で虎口3が大手の虎口となる。主郭の東側に木橋で接続される曲輪IVは馬出とも表現されるが、外側に出入りしている部分は後世の改変で、馬出ではなく虎口を守るための堡塁と考えられ、虎口3は実際には連続する枡形空間を曲輪Vに入っていたと考えられる。この虎口3周辺には川原石を使った石積が至る所に残されており石積みで固められていたようである。

虎口3の外側から大手口に向かう通路は現状Bを通っているが、Bの部分は非常に狭い。南に隣接する曲輪VIを経由するパターンも想定されるが、こちらは枡形状空間はCの部分に存在している。

東麓は家臣団の屋敷があった地とされているが、近年北側の立野川に面したところに二荷揚場とされる遺構が確認された。この部分は台地より一段低く曲輪Xがあるが、形状からして枡形空間と考えられる。ここからさらに下ると立野川に面した平場があり石塁や土塁も残る。

案 内

南側の道路沿いに案内板がたっておりそこに駐車可能である。入口は東の大手と西の搦手があるが、西の搦手は入口に東屋があるのでわかりやすい。下山を大手にするのが良いだろう。

主な参考文献
東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形(吉川弘文館)
日本城郭大系〈第3巻〉山形・宮城・福島(新人物往来社)
所在地/地図
宮城県柴田郡川崎町本城
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付近の城(直線距離)
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最終訪問日
2023年1月
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