築城年代は定かではないが文安年間(1444年〜1449年)に標葉清隆によって築かれたと云われる。 標葉氏(しねは)は代々請戸城を居城としていたが、嘉吉年間(1441年〜1444年)の標葉清隆の時に権現堂本城館を築いて居城を移したが、平城で防備に難があり、文安年間(1444年〜1449年)に権現堂城を築いてさらに居城を移したという。
明応元年(1492年)相馬高胤は標葉氏を攻めたが渋井の陣中にて急死し、相馬氏は一度は兵を引き上げたが再び相馬盛胤が攻め寄せ権現堂城を落とし、標葉清隆・隆成父子は自刃して標葉氏は滅亡した。
その後、相馬氏の家臣岡田将監が城代となったという。
権現堂城は請戸川の北岸にあり、川に沿って東へ伸びた丘陵の先端部に築かれている。
権現堂城は西へ続く台地に二条の空堀を設けて二郭を造りだしている。 本曲輪は東側で神社が祀られており、空堀に面して土塁が残っている。 西の曲輪は本曲輪より広大であるが、一面藪化しており内部はまったくわからない。
本曲輪は西曲輪の間の空堀は直線的に南北に伸びているが、西側の空堀は一度西側に屈折して南北に伸びている。
請戸川に架かる国道6号線の橋の一本西側、常福寺東側の道路を北上して橋を渡る。橋の北側にすぐ西へ降りていく道がある。民家の脇を抜けて進んで行くと右側にあがっていく道がありこれをあがった所が本曲輪の神社。
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