仁治元年(1240年)千徳行重によって築かれたと云われる。 千徳氏は南部家臣で閉伊郡の千徳城に居た系統が入部したことに始まると云う。
千徳氏は代々南部の家臣であったが、永禄年間(1558年〜1570年)に津軽為信が台頭してくると、千徳政氏は津軽為信と盟約を結んで南部の城を攻めた。天正13年(1585年)南部の軍勢が浅瀬石城を攻めたが、千徳氏はこれを撃退している。しかし慶長2年(1597年、一説に慶長元年)に謀叛の疑いを掛けられ津軽為信によって攻められ滅亡した。
浅瀬石城は黒石icの南東にある台地に築かれていた。
台地の上に空堀で区画した曲輪を配した群郭式の城で、台地の北西端に本丸、東に二の丸、南に侍屋敷、南東に町屋敷の曲輪があり、北側の丘陵には代官館、御堂館などがあったという。
現在は果樹園となっており、内部の遺構は不明であるが、本丸と侍屋敷との空堀の入口に石碑があり、道路には館神社が祀られている。